森ノ宮医療大学看護学部 内田宏美さん
島根大学と鳥取大学併せて20年ほどを過ごした山陰から、5年前に縁あって関西に舞い戻ってまいりました。京都の地で看護師人生をスタートし、山陰に赴く前の四半世紀を臨床看護師として看護教員として相応に充実した日々を過ごしてきたので、20年振りの関西はとても懐かしく、ふんわりと私を包んでくれています。 私が看護研究学会に入会したのは、シスター・カリスタ・ロイが第16回の学術大会が京都で開催されたタイミングで、近田敬子先生(故人)に声をかけていただいた時だったと記憶しています。学術大会では、野島さん(私は現職で最も古株の野島チルドレンで、学生の時から野島良子先生を「さん」と呼ぶように刷り込まれているのです・・・)に見つからないように、冷や冷やしながら受付をお手伝いしたことや、真っ赤なシャネルスーツで登壇したロイが、予想に反して小太りでびっくりしたことなどが懐かしく思い出されます。しかし、野島さんには学生時代に挑んでは叩きのめされてを繰り返してきたので、羨望と拒絶したい気持ちがない交ぜになったまま、野島さんは容易に近寄れない存在になっていました。ですから、若い時は、「研究学会に行くこと=野島さんに出会うこと」を自然と避けるようになっており、そのころのC地区の活動には全く参加できていませんでした。 そんな事情なので、私にとっての地方会の活動というのは、中国・四国地方会が中心となります。中国・四国は大学も会員数も少なく、特に島根・鳥取は、その点が際立っていましたから、評議員に選出される機会が多く、必然的に地方会の世話人の役割も回ってくるわけです。ただ、運営のやり方が整備されていて、10年先の学術集会の担当県が決まっており、学術集会長も3年先くらいまで決めて回していく、世話人の担当役割も毎年の世話人会で話し合って決めていくので、大変ではありますが、粛々と運営していけばよいという感じでした。ですので、関西に出戻って、前世話人代表の若村智子先生に世話人を頼まれて世話人会リストを見て、余りの世話人数の多さにびっくりしてしまいました。中国・四国地方会は世話人を選挙で選び、世話人代表や種々の役割は互選で決めていきますが、近畿・北陸では話人は自発的参加で人数制限はなく、世話人代表を選挙で選ぶシステムです。よくこんな緩やかなシステムで学術集会やセミナーを運営できているなあと感心してしまいますが、ここが近畿・北陸の特徴であり、長年培ってきた強みなのだと思います。やりたい人、出来る人が手上げして、手伝いたい人が率先して手を貸して、難なく集会やセミナーが運営されていって、凄いです。この底力に、当の近畿・北陸地方会の皆さんは気づいているでしょうか? この、近畿・北陸地方会の底力に気づいたのは、中国・四国地方会の世話人代表をしている時です。丁度、地方会設立30周年の節目の年に当たってしまい、近畿・北陸・中国・四国地区から中国・四国地区に再編されて以降、中国・四国地方会を牽引してきた愛媛の中西純子先生が音頭を取られて、30周年記念誌を作ることになったのです。私は、C地区の時からの学術集会の演題集を集めて、内容を分析する役目を引き受けました。欠番の抄録集は、厚かましくも泊祐子先生に連絡を取り、現物をお借りしてコピーを取らせていただきました。記念誌は地方会ホームページのアーカイブに収納されていますので、是非ご覧ください。始まりの方の抄録集はB5版で、抄録の多くは手書きでした。そして、今では看護界を牽引しておられる先生方が、恐らく卒業研究の成果を発表した研究者としてのスタートを切った証が並んでいて、ついついコピーの手を止めて見入ってしまうような、豊かな時間を持つことができました。ここに、近畿・北陸地方会の伝統と底力が確かに宿っているなと実感した次第です。 さて、記念誌を作る作業に携わってのもう一つの収穫。それは、野島さんと折り合いをつけられたことでしょうか。もちろん、私の中での葛藤に、という意味ですが。世話人代表という役目柄、功労のあった先生方にメッセージの寄稿をお願いするのですが、徳島の野島さんにもお願いしなければなりません。本当に100年分くらいの勇気を振り絞って、直接お電話して、何十年振りかに直接お話をしました。脂汗でべとべとになりながら、結局1時間近く話し込んでしまいました。結構、本音で渡り合えたかなと、一皮むけた自分を褒めてやりたくなったのを鮮明に覚えています。 折角舞い戻った近畿・北陸地方会なので、若い人たちの活躍をゆったりと眺めながら、看護学の発展と課題を見つめ続けていきたいなあと思っています。
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